現代語訳
善悪のすべての人を哀れんで、光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された。
この度は、正信偈「矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
矜哀・・・哀れ慈しむこと
定散・・・定とは定善の人で、高度な精神集中である「定」の状態に入って、浄土や仏を心の目で見る行のこと。散とは散善のことで、悪い事を辞めて善い行いを勤めて行うこと。世間的な善行に励むこと
逆悪・・・五逆十悪の罪ばかり犯して、功徳を積めない者
因縁・・・結果をもたらす直接的原因(因)と間接的原因または条件(縁)のこと。
正信偈の原文
矜哀定散与逆悪
ごうあいじょうさんよぎゃくあく
光明名号顕因縁
こうみょうみょうごうけんいんねん
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】定散と逆悪とを矜哀して、光明・名号因縁を顕す。
【現代語訳】善悪のすべての人を哀れんで、光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された。
正信偈の分かりやすい解説
定散二善
善導大師は、誰もが称えられる「称名の念仏」こそが往生の道であると教えられました。
「矜哀」とは、「矜」も「哀」もどちらも「あわれむ」という意味です。また、「与」は、「〜と〜」という意味です。
「定散」とは、「定善」と「散善」ということです。意味は、心を1つの対象に専注して散乱させないはたらきをいい、反対に心が散り乱れて動く状態を散善という。この2つを「定散二善」といいます。
「逆悪」とは「五逆」と「十悪」を表した言葉です。
『仏説観無量寿経』には、韋提希夫人という王妃さまがお釈迦様に教えを請われるお経となっています。昔のインドにマガダ国という国がありました。王子の名を阿闍世といいます。父の頻婆娑羅王を殺し、母の韋提希夫人をも殺そうとします。なんとか大臣たちの説得によって殺されずに済みましたが、牢屋に閉じ込められます。
韋提希夫人は絶望の中で、お釈迦様に教えを請われます。「どうして私がこんな目に合わなければならないのか、どうか憂いも悩みもない、世界を教えてください」と身を投げ出してお釈迦様にお願いをされました。お釈迦様はその願いに応え、お浄土へ往生する方法として、16項目の教えをお説きになりました。
初めの13項目は、お浄土のありさまや阿弥陀様のお姿を、思い浮かべる観察の方法(13観)が説かれています。後の3項目には、人びとがそれぞれの性質や能力に応じた修行によって、浄土に往生する様子(三観)が述べてあります。
初めの13項目を「定善」(定善十三観)とされ、後の3項目を「散善」と言われます。「定善」とは、精神を集中統一して雑念を除き、修行によっておこなう善です。「散善」とは、日常の散り乱れた心でありながら、悪を廃して善を修する行為です。
「定善」も「散善」も、どちらも自分の力を頼りにして修める自力の善になります
善導大師とは、どんな人だったのか
善導大師について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、お経の解釈について同時代の僧侶の解釈の誤りを指摘し阿弥陀様のお心を広められた方です。 お経では、ここから雰囲気が変わるよね 七高僧 ...
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五逆と十悪について
「五逆」とは、5つの罪のことで①父を殺し②母を殺し③阿羅漢(聖者)を殺し④仏教を喜ぶ仲間の輪を壊し⑤仏像を傷つけることです。『仏説観無量寿経』の中で、阿闍世と阿闍世をそそのかした提婆達多が該当します。
五逆とは
①父を殺し
②母を殺し
③阿羅漢(聖者)を殺し
④仏教を喜ぶ仲間の輪を壊し
⑤仏像を傷つけること
「十悪」とは、①殺生:生命をそこなう②偸盗:盗み③邪婬:よこしまな男女関係④妄語:うそをつく⑤両舌:二枚舌をつかう⑥悪口:悪いことば⑦綺語(きご):かざりことば⑧貪欲:むさぼり⑨瞋恚(しんに):いかり⑩愚痴:おろかさのことです。身体で行う行為が「殺生、偸盗、邪婬」、口で行うことが「妄語、両舌、悪口、綺語」、心の中で思うことが「貪欲、瞋恚、愚痴」と身口意の3つに分けられます。
十悪とは
①殺生:生命をそこなう
②偸盗:盗み
③邪婬:よこしまな男女関係
④妄語:うそをつく
⑤両舌:二枚舌をつかう
⑥悪口:悪いことば
⑦綺語(きご):かざりことば
⑧貪欲:むさぼり
⑨瞋恚(しんに):いかり
⑩愚痴:おろかさ
善導大師は「定善」の人も「散善」の人も、「五逆」の人も「十悪」の人も、すべての人を哀れみ、心を痛まれ悲しまれました。悪人はもとより、自力に励む善人も、阿弥陀様の救いの目当てであり、「南無阿弥陀仏」を素直に受け取ることが本当の意味での救いになると示されています。
善導大師が「矜哀」と哀れみをかけておられるのは、今の私たちのことで、自力に迷い、また縁があればどのような罪悪をも犯す私たちのことです。親鸞聖人は、善導大師の示されたお言葉を我が身に翻って「自力に迷い、時として悪を犯す私」だからこそ、阿弥陀様にお任せして他力の念仏を称えることこそが救いになると述べられています。
光明と名号の関係
次に「光明名号顕因縁」(光明名号、因縁を顕す)とは、「光明」は阿弥陀仏の智慧のはたらきを意味します。光明(光)は、闇を破ります。自力に迷い、道理を知らず、迷っていることにも無自覚な私たちの心の暗闇は光によって破られます。
どうすれば光によって闇が破られるのか、私はどうすれば心の闇を智慧の光によって破られるのか。それは阿弥陀仏の本願が、この私にすでに向けられて光は届いていたと私が気づかされたとき、自分が暗闇の中にいることに気づかされたときに、自力の迷いが頼りにならず、道理に目覚めさせられ、阿弥陀様に自覚させられます。それが、「無知の暗闇が破られる」=「本願の光明のはたらき」なのです。
「名号」とは「南無阿弥陀仏」です。「本願」とは阿弥陀様がすべての人を救いたいと願われました。その願いが成就し、南無阿弥陀仏の「名号」に功徳をいっぱい込めて、私たちに届けられています。「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏に帰依(お任せ)する」ということです。
以上のことをまとめるならば、「阿弥陀仏におまかせいたします」という意味です。
因縁とは
「因縁」とは、「因」は結果を生じさせる直接的原因、「縁」は間接的助縁(条件)のことです。「原因」と「条件」によって、1つの「結果」が生ずることを「因縁」といいます。
これらをまとめると、「光明名号顕因縁」(光明名号、因縁を顕す)とは、「名号」が「因」(原因)であり、「光明」が「縁」(条件)ということです。
阿弥陀様の本願(私を必ず救うはたらき)によって、届けられている「名号」が、私の心の上で「信心」の原因となります。その「名号」つまり「南無阿弥陀仏」が、私を目当てにしていることに気づき、その私のありのままの姿に気づいた時(光照らされ、我が身の姿に気づくことが)条件となるのが、本願による智慧の「光明」であると、善導大師は示されています。
「信心」とは、自分の心で思い起こすものではなく、阿弥陀仏の願いが原因で私に届き、その願いの目当てが私であることに気づかされることが「信心」ということです。阿弥陀様が「すべての人を救いたい」と願われたという事は、私たち一人一人が救われることを目当てとしています。その阿弥陀様の願いに素直に従う心、それが「信心」というのです。
正信偈の出拠
『高僧和讃』無礙光如来の名号と かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ
『礼讃』しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。
『教行信証』まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明・名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」
『観経疏』阿弥陀仏の大願業力を増上縁とす